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組合の沿革
 
1 大正2年
田辺玄平翁が、「食糧問題の根本的解決はパン食の普及にあり」と、東京下谷黒門町にアメリカから帰国後、近代的製パン法と称して食パン製造工場を創設した。
その当時かかげたパン食宣伝の三大スローガンとは、
  一、食糧問題の根本的解決はパン食の普及にあり。
  一、パン食の普及はパン製造法の改善にあり。
  一、パン食に慣るるは国民の義務なり。

であった。
2 大正8年頃
下谷黒門町の工場も手狭になったため、麻布宮村町に工場を新設し、機械化にも先鞭をつけ、パン焼窯、ミキサー等を導入して大発展を期した。

アメリカ式製パン法による技術の習得と配達による販売方面の知識の学習を通じて、その後独立を志す青年が全国各地より馳せ参じ、麻布パン工場は、さながら製パン塾の様相を呈した。その後、赤坂新町に「赤坂分店」も創設された。

3 大正末期から昭和初期
麻布本店、赤坂分店の門下生も3年、5年、7年と技術を習得し、販売方法を身につけ、蓄財もできるにつれて、それぞれ思い思いの場所に新しい店を開店するようになった。当時、先生を囲む初期の高弟は、池田操、雨宮五六、前原登志郎、雨宮平三郎、志田頼次郎、林幸一、平野芳身、中村都通、坂田吾作であり、彼らは「丸十互助会」を発足させた。

この互助会の目的は、麻布本店、赤坂分店の両主人を中心に、新製品の開発、販売方法の研究、原材料の共同購入、従業員の育成等を志すもので、「親睦と共栄」をその根本理念とした。

4 戦前

昭和12、3年頃には互助会会員は50名ほどに達し、その名も「丸十親睦会」となっていたが、戦前は一時活動ができない時期もあった。

5 終戦直後
戦争終結とともに、物資統制令により、製パン業者も、小麦粉その他原材料の配布を受けるには法的な組合を作らないと、物資の配給を受けられないため、田辺玄平先生の長男である田辺一郎氏を初代理事長として、「東京都丸十パン協同組合」を発足させ、小麦粉、原材料の配給事務を行い、食糧報国に専念し、二代理事長に志田頼次郎氏を迎え、当時の苦難時代を切り抜けてきた。

6 昭和20、30年代
食糧事情の好転、統制令の撤廃により、協同組合は自然と活動停止となり、再び「丸十親睦会」が復活した。

7 昭和41年
商標等の問題により、組織を法人化する必要に迫られ、理事長に中村都通氏を迎え、「親睦と共栄」をモットーに「全日本丸十パン商工業協同組合」が発足した。



 
全日本丸十パン商工業協同組合